(1)

「ラレンさーん!」
 店の扉に付けてある鈴がからころと揺れ、元気のいい声が飛び込んできた。
「ひさしぶり! 今日も繁盛してるねっ」
 音使いの少女は、こちらの返事も待たずに、奥の工房に顔をのぞかせる。何の前触れもなく、ごはんだの泊めてだの言って立ち寄りに来るのはいつものこと。窯から出したパンを脇へ並べながら、ラレンタンドは彼女に向かって片手を上げた。
「おう、ひさしぶり。まあ何とかな」
「ねえねえ、今日の発酵って全部終わっちゃった? まだ?」
 勢い込んで尋ねてくる少女に、ラレンタンドは目をしばたかせた。
「まだ全部は終わってないが・・・?」
「ほんと!?」
 少女はぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、ちっちゃいのをちょっとでいいから、発酵の面倒見させてくれないかな。実はすっごく面白い詩譜を見つけてさー、試してみたくてうずうずしてんだっ」
 ラレンタンドは首をかしげた。
「詩譜って、吟誦魔法を文字で書いたもの、だっけか?」
「そう魔法」
「・・・シャープおまえ何たくらんでる? 歩くパンとか出来たりしねえだろうなあ?」
 冗談半分の念押しに、音使いの少女はからからと笑う。
「ないない、自分の使ってる材料信用しなって。どれで試していいか教えてよ、ほんとに面白いんだから」
「ちょっと待て、さすがに売り物で試させるわけにはいかんから、今夜の俺たち用のパンでやれ。売る分を焼き終わったら準備するから、適当に待ってろ」
「あ、私の分も出来るんだ。いつもありがと、ごちそうさまでーす」
「何言ってる、一緒に毒見だ、毒見」
「だから自分の材料信用しなって。待ってるねー」
 笑いながら、少女――シャープは、工房の隅に荷物を下ろし、ごそごそと楽器を取り出した。シャープの相棒であるところのその楽器は、手のひらにおさまる大きさの丸っこい笛だ。ほんのり緑がかった乳白色の胴体に、あちこち穴があいていて、吹き口の反対側には青く輝く石が嵌め込まれている。この石が、吟誦楽器の要ともいえるもので、何とかいう名前の――いつだったか説明を聞かされたが、音使いでもないラレンタンドの頭には、いまひとつ残っていないようだ。
 シャープは売り場と工房のどちらからも見える辺りに腰掛けて、何やら音楽を奏で始めた。勝手知ったる、というもので、客に目を留められると、片手で笛を操りながら器用に手を振ったりしている。それを横目で見ながら、ラレンタンドはしばし、店の切り回しに集中する。

 そして、問題の今夜のパンである。店の作業がひと段落した工房で、発酵の終わったパン生地を前に、ラレンタンドは目を丸くしていた。
「へー・・・早い」
 シャープも同じ顔。しかし感想が若干違う。
「すごい・・・こんなに膨れるとは」
 ラレンタンドは半眼で、隣の少女を見やった。
「どうなるか知らずに魔法吹いてやがったな?」
 前夜から発酵させておいた生地を、パンの形に丸めた後、焼く前に最終発酵の工程が入る。シャープが面倒を見たいと言ったのはこの工程だったわけだが、何をするかと思えば、彼女は発酵の間、ひたすらパン生地に向かって魔法を吹いていたのだ。
 何となく想像はついていたが。
「だって実験したときは、せいぜい一回り大きくなったくらいだったよ? なのにこれ、どう見たって二倍以上だし」
「そりゃタネが悪かったんだろ。俺のと違って」
 言いながらラレンタンドは、こんもり丸く膨らんだ生地に、飾りの切れ目を入れていく。それを見ながら、シャープが残念そうに口をとがらせる。
「あー、せっかく膨らんだのに」
「焼いてりゃまた膨れるから大丈夫だって。俺の生地を信用してないのか?」
 にやりとするラレンタンドに、シャープがひらめいた顔をする。
「あ、材料に自信が戻った」
 二人して笑いながら、パン生地を焼き窯におさめた。あとは焼けるのを待つばかり。

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