(2)
店を閉める頃、焼き上がったパンはほどよく冷めて、そろそろ食べ頃だ。こんがり焼き目のついた丸いパン。見た目には、いつもと変わらない仕上がりに思える。当然ながら歩きも動きもしない――ほんの少しは警戒していたが。シャープは先ほどから工房の一角で、旅先で手に入れた香辛料を使ってみるのだとか言って、スープ作りの作業中。何やら良い香りがし始めている。
「毒見するかー?」
「する! てか、もうすぐスープ出来るから、ごはんにしちゃおうよ」
というわけで、出来上がったスープを注ぎ分け、パンを並べて晩ご飯と相成った。
そのパンを一口かじって、シャープが目を輝かせる。
「うん、ふかふかでほんのり甘くて、おいしい! さすがラレンさん」
一方のラレンタンドは、魔法の効果はいかばかりかと、神妙な顔で咀嚼している。
「どう? いつもと何か違う?」
「うーん、大筋は変わらんが・・・確かに少し柔らかいな。甘みもそうだし、うまみも増した気がする・・・」
ちぎったパンの断面をしげしげと見ながら、
「発酵の速さといい、これはすごいかもなあ」
シャープは得意気に胸を張る。
「だから面白いって言ったでしょ? 実験のときはもっと分かりやすかったよ。ラレンさんほど上手なパンじゃなかったからかなあ」
「一回りしか膨れなかったってやつか?」
「うん。膨れ方はいまいちだったけどね、味はだいぶ美味しくなったんだよ」
得意顔が幸せに緩んでいるシャープである。基本的に美味しいものと面白い魔法に目がない。非常に分かりやすい。
「吟誦魔法って変なのがいっぱいあるけど、こうやって日常的に役立つようなやつは、意外と少ないんだよねー」
「そうなのか」
「そうそう。人の感覚に働きかけるやつが、やっぱり多いかな」
スープも、単純な肉と野菜のスープなのだが、香辛料がさわやかな香りで食欲を刺激し、具材にも良く合っている。産地を教えてもらわなければ、と思いながら、とりあえずラレンタンドは食べることに集中する。
食事が終わった辺りで、シャープがぽんと手を打った。
「そだ、明日の仕込みの分も、魔法吹かせてよ。タネの段階から魔法を聴かせると、もっと美味しくなるらしいんだ」
「おー、いいぞ。ただし俺たち用だけな。また毒見だ」
「了解」
「しかし、よく吹くなあ」
「それが音使いってもんなのよ」
片目をつむってみせて、シャープは荷物をごそごそやる。
「さてと、ラレンさんのために、今日もお疲れ様の魔法でも吹こうかな」
一度片付けた丸っこい小笛を取り出した。魔法にも、パン屋とは違う体力を使うと思うのだが・・・と呆れ半分のラレンタンドである。それでも、シャープのこういう友達思いは、素直に嬉しかったりもする。
「安眠できる魔法か?」
「今眠っちゃったら、仕込みができないでしょ。疲れが取れて元気が出る魔法にしとくよ」
「お、嬉しいねえ。最近腰が痛くて」
「ほんとに? おじさん臭いなあ」
笑って、シャープは小笛を唇に当てる。薄暗くなってきた工房に、かすかな旋律が流れ始めた。昼間に店で吹いていた、普通に『聞こえる』曲とは、明らかに質の異なる響きだ。
これが吟誦魔法――普通の人の耳には聞き取れない音を中心に編み上げられた、特殊な調べ。人の不安を煽ったり、暗示を与えて殺し合いをさせたりできるような禍々しい種類もあるそうだが、シャープはそういう魔法は吹かない。今吹いてくれているものも、優しく柔らかい響きで、疲れた体をふわりと包み込む。
心地よい疲労感にひたりながら、ラレンタンドは少しの間、目を閉じた。