Ⅰ◆月と戦神――異世界の神話

 世界の大地は、白茶けたそっけない色をしていた。生き物や植物らしいものは何も見当たらず、ただ岩とも何ともつかない地面が、起伏しながら続いている。
 遠くを見渡すと、地上をうっすらと覆う酸化大気が、景色を白く霞ませる。空を見上げた方が、まだしも大気の膜が薄い。
 その空には、橙みをおびた太陽と、黄白色に輝く月とが、離れ離れに浮かんでいた。ふたつの光にさらされて、大地も大気もひたすらに熱を溜め込んでいく。この世界では、気温が三桁に達しない場所を探す方が難しい。
 ここに住んでいるのは、ごく少数の人々だけだ。場所を選び、外界と隔てた空間を作って、細々と暮らしている。生き物の存在を拒絶する、過酷な世界――それが、今のこの世界。
 しかし、かつてのこの世界は、現在とは全く違う姿をしていた。たくさんの植物と生き物たちが集う楽園だったのだ。その時の地上は、一人の神が統べていた。彼の名は、マース。緋色の髪と藍の瞳と赤銅色の肌を持つ、雄々しき戦神であったという。
          *
 戦神といっても、争いを好む神という意味で、マースはそう呼ばれたわけではなかった。確かに力は持っていたが、彼は知恵の神でもあり、ゆえに誰もが納得するかたちで争いを静める能力にも長けていた。地上が憎しみや悲しみのない理想郷でいられるのは、彼がうまく立ち回っているおかげだった。
 そして、マースの統べる地上を見守る二神があった。天空高くおわし、数多ある世界を見つめる太陽の神と、その代行者として世界の空を司る月の女神、ルナである。太陽は希望と恵みの輝きで、月は静かな慈悲の光で、地上に生きるものたちを照らしていた。そう、この時代はまだ、太陽は世界に背を向けてはいなかったし、月も夜の安息を守っていたのだ。
 しかし、楽園は永遠ではなかった。あるひとつの種族が目立って増え始めたときを境に、地上の争いごとは爆発的に増え始めたのだ。あるひとつの種族――人間であることは言うまでもない。他の生き物たちよりはるかに高い知能を持った彼らは、その力を持て余し、たくさんの負の感情をも取り込むようになっていた。
 ……マースは頻発するいさかいを、一つ一つ仲裁していく。しかし、際限なく湧き上がる憎しみや恨み、悲しみや怒りに、次第に手が回らなくなっていった。
 どんな生き物でも、心から他者の不幸を望みはしないものだ。他の生き物を食べるために殺すことも、縄張りに入ってきたよそ者を襲い、傷つけることも、彼らは生きていくために必要であるから行っているのであって、断じて気まぐれや遊びではない。そのはずなのに、人間だけがそこから外れてしまっていた。他者の不幸を望み、その死を望み、あげくに好んで他者を傷つけたり殺めたりするのだ。徒党を組んで大規模な争いを起こすことも、たびたびあった。そんな、本当の意味での平和を望まなくなった者たちを仲裁しようとしても、どうしてうまくいくだろうか?
 ……人間たちの争いに巻き込まれて、他の生き物たちは激減している。何から守ればよいのかさえ分からないような状況で、それでも孤軍奮闘するマースを、ルナは空から見ていることしかできなかった。世界の空を任された月の女神は、そこから動くことができないのだ。だからルナは太陽に訴えた。このままでは、地上は憎しみでいっぱいになってしまう。太陽の力で地上を救ってほしい、と。
 しかし太陽神は、黙したまま答えなかった。彼にとって、ちっぽけなひとつの世界に争いが蔓延することなど些末事に過ぎない。彼にとって大切なのは、憎しみも争いもない世界であり、そのような世界は他にいくらでもあるのだった。
 ――この世界は、太陽に見捨てられてしまったのか。
 ルナは悲しみに打ちひしがれた。どこで間違ったのだろう。世界を元に戻すには、どうすればよいのか――。手立てを話し合おうと、ルナは必死にマースを呼んだ。しかし、その時既に地上の神は、月の神の声を聞く余裕を失っていた。
 ……マースは疲弊し切っていた。どれだけ努力しても、それをあざ笑う速さで争いが増えつづけるのだ。人間の数も増えた。他の生き物を全て集めてなお勝てぬほどの数を頼み、マースを尻目に専横を振るう。ある日とうとう、人間の集団のひとつがマースに、敵対集団との戦いに加勢してほしい、と要求してきた。
 ……断ればよかったのだろう。その人間たちの言う戦いとは、一方的な虐殺しか意味していなかった。同じ種族の間で――相手が気に入らないという理由だけで、殺し合う。こんなことをしていては世界が滅びてしまう、と言い諭せば良かったのに、マースにその気力は、もう残っていなかった。
 マースを味方につけた集団は、短時間の戦いで大勝利をおさめた。言いかえれば敵対集団を殺し尽くしたということだ。いくら疲れ切っていたといってもマースは神、それも戦神であり、そうである以上人間など足元にも及ばないほど強かったのだ。
 人間は弱い。マースは初めてそのことを知った。
 ならば何故、今までこうも苦労していたのだろう。人間に振り回され、争いを鎮めようとして言葉を尽くし、駆け回って……
 答えはすぐに出た。あくまで話で解決しようとしていたからだ。話を聞こうともしない相手に対してまで、辛抱強く言い聞かせようとしていたから。愚かなほど、辛抱強く。思えばなんと無益なことだったのだろう。
 争いを起こす者など、何を言っても聞き入れぬ者ばかりだ。話して埒が明かないのならば、力で黙らせてしまえば良いではないか――今回のように。力で彼に敵う者などいないのは明らかなのだから。
 次の戦いが始まったとき、マースはひとかけらのためらいもなくそれに加わった。先の戦いよりもさらに圧倒的な力で勝利した、彼と彼に付き従う人間たちの前に、もはや敵はなかった。
 ……ルナは、地上に見た光景に、我が目を疑った。他の人間を追う、ひとかたまりの人間の集団。その先頭に、マースがいる。
 ――どうして。
 絶望に似た冷たい痛みが、月の女神の心を凍りつかせた。戦神マースに何が起きたのか。なぜ人間たちと一緒になって、世界を破壊しているのか――。
 確かなことがひとつあった。地上の神に声が届かなければ、空の神は地上との接点を絶たれてしまう。荒れ果てていく世界、途切れることのない戦いを、今度こそ見ている他なくなってしまったのだ。
 ルナは己の無力さを噛みしめ、地上の者たちが正気を取り戻してくれることを願いながら、痛む心を抱えて空を巡る。地上の者たちを信じ、希望を持ち続ける――ルナにできることは、もはやそれしか残されていなかった。
 ……力に毒された地上の神は、正常な判断を完全に失っていた。空の月も太陽も目に入らぬまま、人間たちとともに殺戮を重ねていく。今やマースにとって、自分についてくる人間たちだけが全てだった。
 平和という目的を忘れてしまったわけではない。むしろ、その目的が歪んだ認識を生み出し、マースに戦いを続けさせていた。――敵対する者は全て殺せ。それすなわち争いを望む者であり、それを殺せば平和がやってくるのだ――と。
 やがて、マースたちに敵対する者は、徐々に減り始めた。しかしマースは、それを信じることができなかった。まだいるはずだ――平和をおびやかす敵が。その時戦神の目に入ったのは、長い間忘れていた、空の月と太陽であった。
 ……月の神の願いは、ついに叶うことはなかった。地上を破壊し尽くしたマースと人間たちは、ついには太陽と月までも壊さんとして、空へ向かってきたのだ。
 ――何と、愚かな。
 それを見たとき、ルナの心に残っていた最後の希望が――本当に細く、微かで、それでも諦めまいと輝いていた最後の光が、ふつりと立ち消えた。
 ――狂ってしまったのだ、何もかも。
 ――世界はもう、元には戻れない――
 ルナの悲しみと絶望は、灼けるような怒りに昇華し、戦神と人間たちに降り注いだ。彼らは小さな星に封じられ、地上から永遠に追放されたのだ。
          *
 ……その時から月は、世界に背を向けた太陽とともに、空で輝き続けている。太陽に代わって世界を守ろうとするかのように――そして、戦神たちが再び地上に戻ってくることのないように。それは、慈悲だけの存在ではなくなってしまった月の女神の、深い怒りと悲しみの光であった。
 世界に平和は戻っていない。戦神マースは地上を去ったが、彼らの残した禍根はあまりにも大きかった。生き物がほとんどいなくなった世界を包むのは、平和ではない。身を切られるような静寂である。
          *
 そして、長い時がたち。変わり果てた世界は、やがて、生き残った一握りの人間たちに託された。彼らの使命は、かつてのような賑やかな平和を、地上に取り戻すことだ。月の傷心が癒え、太陽が再び世界に微笑みを向ける、その時のために――。

進む→