Ⅱ◆神のいない地上で

 彼女は別に、『神の啓示を受けたから』というような理由でそれを始めたわけではなかった。もっとも、神がいたとしても、人に啓示など授けている余裕はなかっただろう――一方は目の前の争いを鎮めるのに精一杯で、他方は地上へ声を届ける術を失っていたとしたら。
 ともかく、彼女は地上に残っている生き物をひとつがいずつ、できる限り手に入れようとした。最低でもひとつの種を一体ずつ。それらは木で仕立てられた方舟ではなく、地下深くに造られた専用の施設に集められていった。
 その頃の地上の環境は、急転直下の勢いで、悪いほうへ転がり落ちていた。彼女は以前から、生物学者として動植物の生態系を調べており、それが崩壊していく様と、生き物の激減ぶりを目の当たりにしていた。だから、全てが死に絶える前に少しでも保存する努力をしなければと考えたのは、ごく自然なことだった。
 生態系の崩壊を食い止め、地上に置いたままで生き物を守ろうという試みは、既に諦められて久しかった。もはやどう考えても、数年のうちに地上が元に戻ることはありえない。数十年、いや数百年――減りすぎた生き物、崩れた生態系が、そんなに長くもつはずがないのは分かり切っていたから。
 しかし、いくら減っているといっても、地上にはまだ十万の単位で生物種が存在する。それらをそのまま地下施設におさめようとするのは現実的でないし、そんなことをしても生き残れはしないだろう――神話の世界とは違うのだ。当然のように取られた方法は、細胞の保存と遺伝子の記録である。全ての生物について、遺伝子の塩基配列を。そして細胞――可能ならば、各組織に分化する前の幹細胞を。……そうして集められたサンプルは、生きている姿や生息場所などの情報を詰め込んだチップとともに、本に似た形の小さなケースに入れられ、施設の一角に作られた保管庫へおさめられていった。
 彼女と、共に作業に当たった科学者たちの間で、その部屋は『方舟の部屋』と呼ばれるようになっていた。いつか新しい地上に、再び出て行くことを願いながら、生き物たちが箱の中で眠っている――それがいかにも、神話に語られる方舟のようだったからだ。『創造主の図書館』と表現した者もいた。生き物について知るための情報と、実際に作るための情報が、全て詰まっているのだから、と。もっとも、創造主並みの情報を揃えるには、遙かに多くの部屋と時間、それにタイムマシンか何かが必要だろう。既に絶えてしまった生き物の情報は、過去に戻らなければ手に入らないから。
 例の大戦が始まる少し前に着手されたこの活動は、大戦中にも細々と続けられていたが、やがて停滞していった。戦争に関わる研究のために、科学者が次々引き抜かれていったのがひとつと、集める対象の生き物があまりにも減ったことがもうひとつ。人手も存在理由の一端も失い、地下施設からは活気が消えていった。
 彼女は最後まで施設に留まった科学者の一人だった。大戦のさなか、施設は彼女の手で封印されたという。存在理由のもう一端、すなわち生物種を保存し未来へ託す、そのために。こうして科学者たちの方舟は、静かに時の波間へ漂い出た。
           *
 …………地下の方舟がどこにあるのかは、もう誰にも分からない。
 ルナとマースの物語より少し現実に近い、知られざるもうひとつの言い伝えである。

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