(3)


 この町の雨は、三日ごとに降ると決まっているのだろうか。次の雨も、狂いのない周期でやってきた。
 朝食を終えて席に座ったまま、外の雨を眺めていると、食器を下げにきた母親に声をかけられた。
「外が気になりますか?」
「…なりますね、やっぱり」
 つい本音が出る。余所者の我儘だろうとは思うのだが、室内にじっとしているとどうも落ち着かないのは、きっと根無し草の性だろう。雨に打たれて歩くこともよくあるから、雨を嫌う気持ちは普通の人よりずっと少ないと思う。むしろ好きなくらいだ。
 母親は困った顔をし、意外な返答をくれた。
「どうしても外出されたいのなら、せめて合羽を着ていってください。自警団の方々もそうしてらっしゃいますから」


 雨の匂いに満ちた空気はひやりと冷たく、最初に来た時とは別の印象を与えてくれた。人影がないのは初日と同じ。代わりに道端に並ぶ彫像が、不思議な存在感を漂わせている。
(静かだな…)
 人の気配がないと、まるで違う町のように、空気感が全く変わってしまう。ここの場合は、寂しく虚ろな印象はない。何か厳粛な、壊してはいけないような静けさだと思った。
(こんな日も、いいもんだな)
 そう思うのは、晴れの日がまた来ると、分かっているからかもしれない。
 青年は合羽のフードを上げ、顔で雨を受ける。線を引いて落ちる雨もいいが、霧雨でもまた違った心地良さがあるものだ――
(え)
 どくん、と心臓が大きく打った。
 空を見上げる瞳が、いつの間にか別のものを見ていた。今まで見てきた町、歩いてきた道、会ってきた人――市場の喧騒、広い街道、鉄の香りのする鍛冶場町、潮騒に包まれた港町、職人と見習い達、上手い者と伸びぬ者の顔つきの差。貴族の町と、それにすがるように広がる貧民街。あるいは死人のような、あるいは異様に輝く目をした子供たち、浮浪者たち、日の当たらない細い路地。山中の獣道、木の枝が覆う石の道、草原を渡る土の道――様々な光景が、狂ったような速さで流れていく。突然のことに、瞬きも出来ず、青年は宙を見たまま凍り付いていた。
 ――そして、"最後の記憶"が目の前によみがえる。近頃は町に入る気が起きず、ずっと野の宿を取り続けていたが、そんな暮らしが長いこと続くと、さすがに屋根が恋しくなってきた。屋根さえあればどこでもいい、そう思って、とある町の安宿の戸を叩いた。その適当さが仇になった――眠っている時部屋に押し入ってきた男たちは、三人だったか四人だったか。抗う間もなくあちこちを刺され、しかし暗がりのことで急所を突いてもらえず、胸を刺されて声を上げることもできず、意識を失うまでの苦しみは長いなんてものではなく。物盗りならば無駄な手汚しをしたものだ、大した荷も持っていなかったのに――
「なんだ…俺、死んでたんじゃないか」
 思い出したら笑いがこみ上げてきた。別に自嘲ではなく、気が狂ったつもりも一応ない。抜けているなと呆れる気持ちが半分、残りの半分は、ただ無性におかしかった。
 自分はとことん根無し草らしい。死んでも旅を続けているとは。
(でもまあ、最後にこんな町に巡り会えてよかったけど…)
 ひとしきり笑い、気がつくと少し離れた所に、見覚えのある自警団の男が立っていた。


「ども。ご苦労さまです」
 顔に浮かべた笑いを別種のものに変え、青年が軽く手を上げてくる。それを見る男――この町では数少ない生者である自警団の彼は、表情が硬かった。
「あんた…大丈夫か?」
「うん? あー…そうですね。さすがにちょっと、きましたね」
 青年は苦笑し、大きく息をついた。
「雨に濡れたら、皆こうなるんですか? 外に出たがらないわけだ」
「そういうことだ。ただ、何が起きるのか知る者は、自警団の他にいない。自然に禁忌だと理解されているのに、あんたはそれを――」
「わかってます、よくわかりました。かき回して悪かったですよ。本当に嫌ですもん」
 青年は皆まで言うなとばかりに両手を振る。
「これは見せたくないですよね。…特にガキには」
「ああ。酷い人生を送った者や、無惨な死に方をした者が、ここには大勢いる。せっかく忘れているものを、わざわざ思い出させる必要などないんだ」
 辛い気持ちに、死んでなお苛まれ続けるのは残酷だ、と思う。生きていく力になることはあっても、心を温めてくれることはありえないから。時の流れから切り離された者の持つ思いが、時の流れによって薄れてゆくことはないのだから。
「この町、みんな死人? 自警団だけが違う?」
「…そうだ」
 彼が頷くと、青年は興味深げに首を傾げた。
「どうしてそういうことになったんですか? 町を出る時に教えてくれるって言ってましたよね」
「…出て行くのか? 本当に」
 心残りはないのか、と問う彼に、青年は苦笑する。
「根無し草に心残りなんて、あって無いようなもんです。きっと、平和な町ってのを一度見てみたい、くらいに思ってここへ来て、そこでまた不思議なものを見聞きしたもんだから、気になって後ろ髪をひかれた…と、そんな感じでしょう」
「では、話そう。冥土の土産、というやつだ」
 そう切り出しながら、心をよぎる思いがあった。この青年が訪れてきた町に――生きた人が作る町に、和というものはなかったのだろうか。

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