(2)


 二日後、合羽を纏って見回りに出ていた私は、偶然にあの女を見た。
 彼女は玄関先で、誰かを送り出そうとする所だった。少年と青年の境目、といった風情だが、青年と呼ぶには印象が幼い気がした。細身でやや背の高い、私の息子とは似つかない姿だが、彼が今、女の息子という役回りなのだろう。
 私は少し離れた家の陰に隠れ、様子を窺った。邪魔をしてはいけないという気遣いよりも、女の前に出ても話が出来る自信がない、という恐れの方が大きかった。
 別れの言葉であろう、女と少年はしばらく会話した後、互いに慈しむように抱擁を交わした。そして少年は家に背を向けて歩き出し、女はそれを見送る。少年が路地を曲がって見えなくなってから、女は心持ち肩を落とし、玄関の扉を閉めた。
 我に返った私は、足音を殺して少年の後を追い、路地を曲がった。それは町の外れの方へ向かう道で、真っ直ぐ伸びたその先に、少年は立っていた。道の先を見据えて――前触れなくその身体が消え失せ、服と荷袋がふわりと地面に落ちる。それらもすぐに、霧雨に溶けるようにして消えていった。


 その次の日、私は女と少年が住まっていた家を、巡回がてら通りかかろうとしていた。
 彼らに会えるとは考えていなかった。少年が天に召されるのは見届けたし、女の方も還ったであろうとは思っていたが、どれほど押し込めても膨れ上がってくる懐かしさに――情けなくも突き動かされて。その結果私は、思いがけず再会してしまったのだ。
 しかも、丁度玄関から出てきた女は、とんでもない勘違いを私に吹っ掛けてきたのだった。
「やっと帰って来やがったね!」
 開口一番、怒鳴りつけられて、私はぽかんとする以上の反応が出来なかった。女は構わず私の腕を掴み、家へ引きずり込みにかかる。
「馬鹿面さらしてんじゃないよ! どこほっつき歩いてたんだい、このろくでなし」
「…いや…仕事が」
 事態を飲み込めないまま、そんな言葉が口をついて出る。
「自分の息子が旅立つ日にまで仕事にのめってる奴があるかい! 全くこんな奴が旦那だなんて、情けなくて涙が出るよ」
 更に怒鳴られ、私はようやく理解した。女は私を、自分の夫と間違えているのだ。いや、私に彼女の夫という役割が当てられてしまった、と言うべきか。
 いや、待て。なぜ自警の私に役割が振られる? 私たちは町の成り立ちを知る者だ。雨に降られても消えることはなく、死者の町を外から見守っている立場であるはずなのに。
「まっとうな父親ってのがどんなもんか、少しでも考えたことがあるのかい!? 今さら期待しても無駄なんだろうけどね、少しは自分の息子にしっかりした所を…」
 しかし疑問とは裏腹に、女に説教をされながら、湧いてくるのは不条理感ではなく既視感…何故だ。
 そのまま追いやられるように食卓に座らされ、
「食いながら頭冷やしてな。こっちは忙しいんだ」
 どん、と目の前に皿が置かれた。深めの陶皿に、野菜を中心にした煮込み料理が盛られ、堅パンも添えてある。とりあえず旨そうな香りはする――が。
 ひとくち食べて、私は思わず顔をしかめた。苦いというか、えぐいというか…なまじ香りが良いだけに、衝突して見事に不味い。
「何だいその顔は! 食事も息子も忘れるような馬鹿にはいい薬だろうが」
 反論も思いつかず、私はおとなしく料理をつついた。香りと味の食い違いもさることながら、野菜の切片ごとに煮え具合が違っており、それに比例して味の染み込み具合も違っていて、これまた絶妙に気持ちが悪い。
 昔も、妻と喧嘩をした時には似たような料理を食べさせられたものだと、思い出していた。器量も気立ても、そう良い方ではなかったが、料理の腕については大した女だった。鍛冶をしていた私が地金の焼入れを見定めるのと同じような感覚で、美味い不味いの匙加減を良く知っていたのだろう。
 怒らせた時の料理には辟易したものだが、それも臍を曲げられないよう気をつければ済む話。仕事疲れには妻の料理が――酒や煙草よりも――一番だ、と思える暮らしは、多分幸せなものではなかったか。
「…もう食い終わりかい?」
 女の冷ややかな声に、私は我に返った。物思いに気を取られ、手が止まっていたようだ。
「…食べる」
 それだけ言って、食事を再開する。女は私に構わず掃除を続けながら、
「食いたくないなら無理にとは言わないけどね。後から覚えときな」
 まさか夕食もこんな調子になるのだろうかと、私は消沈した。

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