(5)


 あてずっぽうに歩き回り、しばらくして路地を小走りに歩いてくる女と行き会った。
 こちらを認めるなり、彼女は駆け足に変わった。必死の形相だった。
「…この馬鹿が!」
 案の定怒鳴られた。しかし、今までに浴びせられたどんな雑言より切迫した響きだった。
「…すまない。…仕事が」
 そして私は、いつかと同じ台詞を口に上せる。仕事のはずだったのになぜ、との困惑も含めながら。
 困惑については隠すべきだと認識してはいたが、一方で隠し通す自信は全くなかった。もっとも女の方は、こちらの細かい反応など気付けないほど、頭に血が上っているようだったが。
「夢を見たんだよ」
 噛み付くように、そんなことを言われた。
「あんたが仕事場で倒れるかなんかして死ぬ夢さ。縁起でもないだろ? それが跳ね起きてみたら、あんたは帰ってないじゃないか。こりゃ本当にぶっ倒れてるかもしれないと思って…」
 私は言葉も思いつかず、ただ女の顔を見つめる。
「息子が立派に旅立ったってのに、あんたがぶっ倒れてたら話にもならないだろうが!」
 体当たりするようにしがみつかれ、私は不意に理解した。
 本当は、ぶっ倒れたまま、戻ってこなかった。
 彼女は助けられなかった旦那を助けたかったのだ。
 …そして、彼女は今度こそ間に合ったのだ、と。
「…大丈夫だ」
 私はそっと、女の背中を撫でた。
 彼女はきっと、旦那を愛していた。仕事馬鹿だろうと、甲斐性無しだろうと、家族の情とも言うべきものでつながっていた。きっと、そうだったのだろう。でなければ、彼女はこの町へは来ていない。
「ここにいる。ぶっ倒れたりしない。大丈夫だ」
 腕の中のぬくもりは、共に暮らした妻のものではないけれど。
「ふん…甲斐性無しが、何を偉そうに…」
 嗚咽混じりの憎まれ口が、どうしようもなく似ていて。
 知らず、目頭が熱くなっていた。
 いなくなった者を悼むことは、その者を慰めるよりはむしろ、残された者自身を慰める行為――ならば、故人に似た人間から故人を想起することも、自分自身への気休めにしかならない。
 互いを見ながら、互いに違う者を想う。
 心はすれ違い、けれどひとは確かに満たされて。
 それでも良いのだろう。この町では、満たされることこそが大切なのだから。

 頭上の月が、薄雲に溶け――
 私たちの周りに、静かに霧雨が降り始めた。

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