(3)


 奇妙な生活が、始まった。…もっとも、奇妙、というのはこの町の裏を知っている私の感想であり、妻に――いや、女にとっては、甲斐性のない旦那の尻を、相変わらず叩きながら暮らしていることになるのだろうが。
 朝、彼女に叩き起こされ、着替えもそこそこに食事を摂り、仕事に出る。最初の朝は、文句の一つも言われるのかと冷や汗をかいたが、彼女は意外にも、気持ち良く私を送り出してくれるのだ。巡回の途中に彼女と出くわす心配もあったが、やがて昼前の市さえ避ければ大丈夫らしいことが分かってきた。
 彼女の旦那というのは、よほど仕事に入れ込む人種だったらしい。雨の日に、仕事に行くという私を、彼女が引き止めなかったからだ。
 雨は、現世とこの町を繋ぎ、この町と天を繋ぐ懸橋。現世に近い者は現世へ、天に近い者は天へ、連れてゆこうとする呼び声――。心残りを拭い切らずに雨に触れれば、現世に引きずられ、生前の記憶――辛い――忌まわしい――悲しい――そんな記憶が戻ってしまう。そうして心が壊れてしまう者も、中にはいる。
 だから、この町に来た者は、雨を避けることを知っている。彼らのからだに、それだけは刻み込んであるから。
 それなのに、あえて仕事に出してくれるあたり、彼女の肝も据わっているし、旦那もよほどの強情張りだったのではあるまいか。たとえば嵐の日でも、ひどい熱を出していても、仕事に出ようとするような。
 ただし、雨の日の彼女は、別人のように私を心配してくれた。
「手袋はちゃんと嵌めたかい? ズボンの裾も長靴に被せたね。…ああ何してんだい、ホラ首もとの紐、そんなほどけそうな縛り方じゃいけないよ、雨が入るだろ…」
 生きている私は、雨に触れても害はないのだが、そんな説明は出来ない。結局普段よりも桁違いに厳重な服装で、巡回に出る羽目になる。
 それでも、自警として私がするべきことを、妨げられずに済むのは幸運だった。

 息子の他に、彼女にどんな思い残すようなことがあったのか、私は知らない。このまま仮の生活を続けていれば、やがて答が出るのだろうか。
 今の私には、こうして何事もなかったように暮らし続けてやることしか出来ないのに。


 それから日は巡り、市の日、夜。町は一日を終え、静かに眠りにつこうとしている。
 私は女との生活にすっかり慣れていた。今日の夕食は、彼女特製の干し果物入りパンに、肉と野菜の煮込みだった。えぐくもなければ、妙な煮え具合でもない。今の所、あれは初日だけの特別製で済んでいる。毎日うまい料理が出てくるのだから、彼女もやはり腕はいいのだな、と思う。
 そんなことを考えながら、女の隣の寝台に横たわり、ぼんやり天井を見上げている。明日は何もない日、そして明後日は雨の日…また、彼女が世話してくれる雨具に、厳重に身を固めることになるのだろう。
 今の状況が心地良くもあり、不安でもあった。女は還ることができるのだろうかと案じ、彼女は何が心残りなのかと考え、私自身は彼女が還ったときに平静でいられるのだろうかと自問する。まさか女本人に、何を思い残して死んだのかと尋ねるわけにもいかず、私は己の気持ちを扱いかねてきていた。

 どうしても思い出すのは、私の妻のこと。今隣で眠っているこの女のように、我の強い性分で、気に入らないことがあればすぐにがなり立て、言い分を通そうとする女だった。その達者な舌で、悪徳商人や税取り役人を追い返したこともあったが、はた迷惑さはそれを帳消しにして余りあったかもしれない、と今にして思う。皆、私に遠慮してか妻を警戒してか、私の前では文句も言わなかったけれど。
 場合によっては料理の腕さえ打ち消して余りある、それほど扱いにくい根性の女だった。みっともなくてどうしようもない、と言い切ることもできよう。しかし――それでも。共に暮らしていれば、根性や料理などとは関係なく、なぜか情が湧いてくるものだ。
 妻を亡くし、息子を亡くして、ようやく知った。家族の情、と言うのか――どこかに穴があいたような、どんなに薄れても決して消えることのない、この思いは。
 同じ家に住まい、幾年月を過ごすうちに、彼らはすっかり私の暮らしの一部になっていたのだと――私自身の一部になっていたのだと。
 ようやく、思い知ったのだ。

 妻が思い残すとすれば何であろうか。最も有り得るのは、息子のことだろう、と思う。妻は、私が出稼ぎから戻る前に死んだ。息子は私が看取った。…妻は息子を残して死ななければならなかった。息子を置いていくことに、心配なり不安なりがあったことは想像できる。
 しかしこの女は、息子の見送りは既に終えている。ならば他には何がある? 旦那のことか、家のことか、町のことか…あるいは、息子が戻ってくるとでもいうのだろうか。

 答えなど、出るはずもない。それこそ神のみぞ知る話だ。
 私は考えを振り払おうとして失敗し、悶々と寝返りを打つ。背中に女の寝息を感じながら、何事もない夜が静かに、更けていく。

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