三月四日(木)

 翌日。目覚まし時計より少し早く起きたはいいけれど、あまりの寒さに再び布団にもぐりこみ、次に起きた時には電車時刻ギリギリ。目一杯あせって身づくろいし、靴を引っかけて外へ飛び出すと、今日は雪がちらほらと舞っていた。道理で寒いわけだ・・・。
「待って待って待って、乗りまーすっ!」
 滑り込みセーフで電車に駆け込んだ私に、彰代が涼しい顔で声をかけてくる。
「おはよー。今日こそ来ないかと思ってた」
「来ますってば。一限目英語なんだもん」
「――あれ、結のクラスって英語の先生・・・」
「今日だけM氏! なのだ」
 怪訝そうにする彰代に、私は片手でガッツポーズをする。
「あー、なるほど。楽しみなのね」
「補習十二日もあるのに、今日だけなんだもん。遅刻したら悲しくなっちゃう」
 M氏は五人ほどいる英語教師の中で、一番授業が面白いと評判だ。それに加え、写真部員の私としては、顧問が教壇に立っている姿というのも別の意味で面白い。写真マニアぶりを前面に押し出してフレンドリーに会話する姿とは、けっこうギャップが激しくて、無理に真面目な顔を作っているように見えたりして。
 ちなみにMは先生のイニシャルだけど、白いものの混じった髪の生え際が見事にMだから、という裏の意味もある。
「そういえば、昨日のスケッチブックどうなったかな」
 ふと思い出した私に、彰代はあっさりと答えてくれる。
「無くなってたよ。取りに来たんじゃないかな、持ち主」
「そっか。ならよかった」
 やっぱり彰代はちゃんと見ている。私みたいなギリギリ人間だと、朝はもう電車しか目に入らないからなあ。

彰代が合唱部の送別会で遅くなるため、帰りの電車は私一人。一日中雪のちらつく寒い天気だったけれど、夕方頃にはその雪もほとんど止んでいた。
 四人ほどの一番最後に電車を降り、いつものように駅舎の脇を通り抜けて帰ろうとし(これが順路なんだよね)、思い直して駅舎に引き返した。スケッチブック。彰代に無くなっていたとは聞いたけど、やっぱり気になる。
「あれ・・・残ってる」
 窓からのぞくと、昨日と同じベンチの上に、焦げ茶色のスケッチブックがひっそりと載っていた。
「彰代、見間違えたのかな?」
 まあ、あれだけ存在感がなければ無理ないかも・・・いや、朝の私なら見落とすかもしれないけど、彰代が、ねえ?
 首をひねりながら、駅舎の引き戸をがらがらと開け、中に入る。悪いかな、と思いつつ、スケッチブックを広げてみた。今日もどこにも名前は書かれてない。でも絵が増えていた。描きかけだった三枚目が完成し、雑木林をバックにした民家が現れている。一枚目よりもさらに古めかしい家・・・それもそのはず、なんと茅葺きだ。どこの世界遺産、って感じ。
 四枚目は大きな木だ。こぶがあったり枝がひねくれていたりする、木登りしたら楽しそうな、多分老木。背景がほとんど入っていないから、これは途中なのかもしれない。
「上手いよなー、ほんとにもう・・・」
 思わずため息が出てしまう。木なんて本当に触れそうで、登ろうとして体重をかけたときの軋む音まで聞こえてくる気がする。あらためて感動・・・手描きの線の説得力は、写真にはない魅力だと思う。
(けど描き足してあるってことは、持ち主ちゃんとここに来てるってことだよね・・・)
 この駅舎に置いておきたい理由でもあるんだろうか。盗まれても知らないぞ、と思いながらスケッチブックを閉じる。そして顔を上げた私の目に、不吉なものが飛び込んできた。
「うわ、降ってきた!」
 一人で油売ってる場合じゃないし。スケッチブックを置き直す動作だけ丁寧にやり、あとは大慌てである。
「やーめーてー、傘ないんだってばっ」
 今朝は寝坊で焦って、持たずに飛び出しちゃったんだってばー。
 またたく間に勢いを増す、米粒に毛が生えたくらいの小粒な雪。どうなってるんだ今年の三月は。そんな中を家まで走って、結局今日も制服はびしょびしょになった。

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