三月九日(火)
翌日火曜日は、高校入試の前日。というわけで私たち在校生は、試験室となる教室を清掃したあと、午前のうちに学校から追い出される。午後からは先生たちが準備をするからだ。帰りはお昼の電車にて。どんより曇った空の下、私と彰代は駅舎の中に人影を見つけた。
私は何ともいえない気持ちでかばんを握りしめた――彰代の念願が叶ってしまったわけだ。
(何、もしかしてあの子?)
そう目線で訊いてくる彰代に、私は頷く。すると彼女は、ためらいもなく駅舎の扉を開け、中の女の子に声を掛けた。
「こんにちはー」
・・・ってアンタ、ちょっと待てっ!
「初めましてー、スケッチブック描いてる方ですよね? 私、こっちの人の友達で、話聞いちゃったんですけど」
ひとり慌てる私を無情に引き合いに出しながら、彰代は女の子に歩み寄る。
「勝手に見ちゃってすみませんでした。でも上手ですよねー、私すっかりファンになっちゃったんですよ。お会いできて嬉しいですー♪」
本音も混じっているだろうけど、彰代はわざとらしいほど笑顔だ。「とりあえず明るく行ってみよう作戦」にしたって、ちょっとあなた。昨日の様子を知っている私は、はらはらしながら女の子の様子を窺った。
こちらをちらりと見上げただけで、一言もなく、彼女はすぐに手元に視線を戻してしまう。案の定の浮かない――いや、暗いと言い切っていい表情。右手にはいつも通り黒鉛の塊があるけれど、その下のスケッチブックは閉じられていた。
さすがに様子がおかしいのが伝わったらしく、彰代が笑顔を引っこめる。
「・・・何かあったんですか? 私たちで力になれるか分かりませんけど、良かったら話してくれませんか? 何か出来ることがあったら――」
遮るように女の子が口を開いた。
「お話しすることはありません。お二人にできることも」
生気に欠けた、拒絶するような口調に、私はひるんでしまう。
「これは、私の問題ですから」
「そうかもしれないけど、話すだけ話してみません? 言葉にするだけで気持ちが軽くなることって、ありますよー」
対する彰代は全く引かず、いたわるように女の子の顔をのぞきこむ。――こういう所は強いのだ、我が友は。
しばらく沈黙が流れた。そして、ぽつりと女の子の声。
「・・・描けないんです」
黒鉛を握る手に力がこもり、女の子の桜色の爪が白くなる。雪のように。
「約束したのに・・・」
女の子の目には、涙も感情も見えない。ただ、底なしの穴のように暗く、影が落ちていて。
「怖いんです・・・ちゃんと描けなかったら、私は・・・あの人のこと、憶えて・・・」
思い詰めて、ひたすら自分に葛藤をぶつけている――そんな表情に、私はきゅっと口を結ぶ。この子に何がしてあげられるんだろう? 何もわかっていない私たちに。
彰代は彰代で、女の子の方へ手を伸ばしかけた。背中を撫でてあげようとかそんな感じだったのだろうけど、女の子が口を開く方が早かった。
「・・・帰ってください」
スケッチブックの表紙を見つめたまま、彼女は言った。
「これは、私の問題ですから・・・」
同じ台詞をもう一度。
もはや何も言えず、私たちは女の子を気にしながら、駅舎を後にした。