三月八日(月)

 月曜日、私は医者に行ってから遅刻で登校することにした。一限目の数学をサボりたかった、というのは言わない約束である。
 我が家から徒歩五分ちょっとの小さい病院から、薬をもらって出てきたとき、次の電車時刻までは二十分ほどあった。一旦家に帰るのも面倒なので、駅へ直行することにする。相変わらずの曇り空は、また一雪降りそうな気配を漂わせていた。
 そして、駅舎には再び先客がいた。
「あ・・・こんにちは」
 しまった今は『おはようございます』か。まあいいや。
 私の挨拶に、女の子はいつかと同じように会釈してくれる。けれど笑顔はなかった。何かすごく浮かない顔で、開いたスケッチブックを眺めている。彼女の右手は、今日も黒鉛の塊らしきものを握っているけど、ぜんぜん動いてないし。
 どうしたんだろ。なんか気まずいなあ・・・。
 しばらく迷った末、私は思い切って口を開いた。
「あの、元気なさそうだけど、大丈夫?」
「・・・・・・」
 反応なし。うーむ。
「・・・えーっと・・・絵、上手いよね」
 そう言うと、女の子はぴくりと顔を上げた。
「ごめんね、そのスケッチブック、ここに置きっぱなしだったから、つい見ちゃってさ。びっくりした」
 えへ、と愛想笑いをする私に、女の子は沈んだ表情のまま言った。
「・・・もう一人」
 一瞬どきりとするほど澄んだ声だった。
「いらっしゃいますよね。これを見た方」
 ――げ。ばれてる。
「う、うん。私の友達も一緒だったから・・・」
 それでもって、二人がかりで中身のチェックなんてしてたしな。女の子は、私が話している途中で、再びスケッチブックに目を戻してしまう。うう、なんか罪悪感が・・・
「あんまり上手だったから、見かけるたびに眺めちゃってたんだ。ごめんね、ホントに」
「いえ、別に、気にされなくてもいいですけど・・・」
 いや、うつむいたままそんなこと言われても、責められてるようにしか聞こえないです。
 何とも居心地が悪くなってしまい、私は黙りこむ。女の子も、それ以上何も言わずに手元を見つめていたが、ふと呟いた。
「人が、人を憶えている、ってどういうことでしょうか?」
「へ?」
 私は思わず素で声を上げてしまった。いきなり何を言い出したんだ、この子は?
「記憶の話・・・? 海馬、とか?」
「頭では憶えているつもりでも、姿かたちを描き起こそうとすると、うまくいかない・・・そんな場合、憶えているって言うんでしょうか・・・?」
 海馬とは違う話のようだ。いや、海馬の事を聞かれても、そういう器官があるらしいってことしか知らないから、困ってしまうのだけど。
 しかし、憶えているつもりでも描けない、というのは・・・むしろ描ける方がすごいと、私は思ってしまうのですが。
「うーん、憶えていてもその通りに描けないことって、よくあると思うけど・・・だからって忘れてるのかっていうと、それは違うと思うし・・・」
 私なんて絵心ないから、どんなに憶えていたって、似ても似つかないものしか描けないだろう。目の前にあるものを描いたって変な仕上がりになっちゃうのだ。
 しどろもどろの私に、女の子は特に頷くでもなく、手元を見たまま考え込む風情。やがて、再び呟く。
「じゃあ、約束を憶えている、ってどういうことでしょうか・・・?」
 あら、記憶よりは分かりやすくなった気が。
 たぶん、約束は実行されて初めて、憶えていたってことが証明される。もし守れなかったとしても、事情を説明すれば、忘れたわけではないってことは分かる。彰代との朝の待ち合わせだって、私が来ればそれで良し、来なくても寝坊だと分かれば・・・ですね。
 そんなことを考えながら私が口を開くより早く、女の子がうつむいたまま言う。
「約束は、相手が憶えていなくても、約束・・・ですよね?」
「えーと・・・」
 何でしょう、そのナゾカケみたいな問いは・・・?
 私は固まってしまった。頭の中がまとまらないから、っていうのもあるけど、もうひとつ――怖くなってきたから。
 いつの間にか、女の子のまわりに張り詰めた空気が広がっている。下手な答えを返したら、それが一気に切れてしまいそうな気がしたのだ。例えば女の子がいきなり自殺に走ってしまうかもしれない――極端に言えばそんな不安。根拠も何もないけど、口を開くのが怖くて。
 駅舎の中に沈黙が満ちる。少しして、女の子がぽつりと言った。
「汽車、来ましたよ」
「え!? 早っ」
 慌てて窓の外を見ると、電車がまさにホームに滑り込んでくるところだった。
「あ、ありがと! あ、ごめんね、話途中になっちゃって」
 か、解放されてよかった・・・けど、わかんないまま終わっちゃったよお。
 急いで立ち上がる私に、女の子は黙ったまま、会釈だけしてくれる。張り詰めた空気は消えていた――とりあえず。
「あの、元気出してね!」
 駅舎の戸を開けながらそう声をかけると、女の子はかすかに微笑んだようだった。無理に作ったようにも見えたけど。
 電車に乗ってから駅舎を振り返ったけれど、周囲の景色が窓ガラスに映りこんでしまっていて、中にいる女の子の姿は見えなかった。

「ゆーい。生き返った?」
 昼休み、彰代が私の所に遊びに来た。私はピースを出して応える。
「大丈夫、復活したよん」
「それはよかった」
「あのさ、今日駅で、スケッチブックの子に会ったんだけど」
 そう言った途端、彰代が不満顔になる。
「また結ー? 私まだ会ってないのに」
「まあまあまあ聞いてくださいよ彰代ちゃん。会ったは会ったんだけど、なんか今日はすっごく落ち込んでる感じで――」
 私は彰代に、今朝の女の子の様子を話す。
「結局中途半端な所で電車に邪魔されてさ。気になるんだけど、何してあげればいいのかわかんないし」
「記憶に、約束・・・それって明らかに、でっかい気掛かり、抱えてるよね。人が人を憶えてる、って言い方だから、気掛かりなのは人・・・なのかなぁ」
 彰代は視線を宙にさまよわせて考え込む。
「で、雰囲気も危なそうだった?」
「そう」
 私は頷く。彰代はしばらく沈黙したあと、
「だめ。私も見当つかない」
 お手上げの仕草をした。
「だよねー・・・」
 考えてみれば、名前も知らない赤の他人である。私はため息をついた。

 今日は彰代と帰り道――何だか久しぶりな気がする。電車を降り、例のごとく駅舎に行ってみると、スケッチブックだけが残されていた。
「誰もいないね・・・」
 彰代が先に駅舎に入る。私も後に続く。
 何だか気が乗らない・・・今朝女の子と話したせいだろう。彼女に悪いと思い、スケッチブックを開こうとする彰代を止めようとすると、今さらでしょ、と言われた。
「何か手掛かりとか、あるかもしれないしさ」
 ためらっている私の前で、彰代はパラパラとページをめくる。
「あ、最後のページ描いてある」
「ええ!?」
 私は思わずスケッチブックをのぞきこんでしまった。
「まだ途中みたいだけど。ほら」
 そこには桜並木があった。散り初め、という感じで、花びらが空を舞っている。――いや、ちょっと待った。
「ねえ彰代、これって桜吹雪・・・に見える?」
「そうなんじゃない?」
「私、雪に見えるんだけど・・・」
 未完成の絵は描き込みが少なく、ひらひらと宙を舞うものは撫でた程度にしか描かれていない。だから、なのかもしれないけれど、木に咲いた花からは色みが感じられるのに、その周りを飛ぶ花びらからは色が感じられないのだ。
 始まろうとした春を、冬に押し戻そうとするように降る雪・・・そう思ってしまうと、何だか寒々しくて、寂しい絵に見えてきてしまう。
「そんなこと言われたら迷うよー」
 彰代が首をひねる傍で、私は毒食らわば皿までだ、とスケッチブックに目を通す。相変わらずの綺麗な絵。でも、時計台の絵を見たとき、私はどきりとした。ページ中央におさまっている大きな時計が、何かをせき立てているように見えたのだ。その次のページには、例の〇.一枚の人の輪郭が、手をつけられずに残されている。
『人が人を憶えているって、どういうことでしょうか?』
 何だか、見てはいけないものを見ているような気がしてならなかった。

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